梓久保林道 岩屋林道




登山靴で来たのは失敗。道の形がほぼ無くなって、沢に下りはじめたたら倒木だらけ。濡れた倒木の上に乗ろうとするとコケや樹皮ごと滑る。
こういうところはスパイク地下足袋がいいのに。

ちょっとした沢を渡ろうとしても、いちいち靴を脱ぐのが面倒になってきて、最後は靴のまま渡っていたら案の定靴の中までびしょ濡れになった。
あー、長靴があればなぁ。

行く先を見上げて、少しでも歩きやすそうなところを歩こうとしたら、両側は藪の高巻き。沢の中を歩くのが一番なんじゃないかと思い始めた。
沢靴持ってくれば良かった…。


歩きながらだんだん「人間って不便だな」と思い始めていた。
同じようなところを、動物は裸足で自由に駆け回っているのに、私は道具が無いと上手く歩けない。と言うか、道具に頼ろうとつい思う。場面が変わるたびに「地下足袋があれば」「長靴か沢靴があれば」と思っている…。


便利なようで不便。
人間は、自分で自分を不自由にしてるのかも。


人の踏み跡だか動物の踏み跡だか分からない跡を追って藪の中に突っ込んだ。
ちょっとの空間だけ木が途切れていたのは、たぶん動物のぬた場で、動物と同じ場所に出てきた自分がなんだかおかしかった。
道が無いと歩けないなんて、やっぱり人間は不自由だな。
地図やコンパスや、赤テープが無いと人は道に迷うけど、動物は地図なんか持ってない。
自分の勘だけで歩くってどんな感じなんだろう…。


動物も道がわからなくなって不安に思ったり、「こっちの方が歩き易そう」とか思ったりするんだろうか?
仲間が落っこちて怪我をしたら心配したり、夜になったら1日を振り返ってホッとしたり眠れなくなったりするんだろうか?

少しだけ動物の気持ちに近づける…と言うとおこがましいか。
動物の気持ちに近づいてみたくなった…のかも。

どんなに想像してもやっぱり動物が何を考えてどんなふうに暮らしているのかわからないけど、少なくても人間に比べたら自由な気がする。









ロビンソンクルーゾーが住んで居そうな岩屋の中にテントを張った。
洞窟みたいな岩屋に体育座りをしている自分は、漂流とか不時着した人みたいだ。
寝ながら聞こえていた水の音は、いつの間にか目の前の沢の音だか雨の音だか分からなくなった。
鹿や熊もこんな感じで寝ているのかなー、とか想像しながら寝た。

岩屋の前にはハクサンシャクナゲの花びらがいっぱい落ちていて、それもなんだかきれいだった。
「漂流とか不時着」と「花びら」がちぐはぐだけど、なんだかロマンチックなようで。

出発する時に岩屋の写真を撮ろうかと思ったけど、撮ってもこの感じはたぶん残せないのがつまらない気がして、写真は撮らずに出発した。


2016/7/15〜7/16
【1日目】梓山バス停〜常楽院平〜梓久保林道〜岩屋林道〜岩小屋
【2日目】岩小屋〜天狗尾根のピーク〜国師のタル〜東梓〜富士見〜水師〜甲武信小屋
(単独)