金峰山まで
10月の休暇は、金峰山まで歩いた。
去年も、その前も、金峰山は秋。
なんか、同じ季節に同じ道を歩きたくなるのはなんでだろ。春の石楠花新道も、そんな感じ。
先週甲武信付近で不明者が出たから、なんとなくキョロキョロ見渡しながら歩いた。
しばらくしたら後ろの方でヘリが飛んで来る音がした。今日も捜索あるんだな。
一人が不明になっただけで、こんなに大勢の人が動いてくれてる。
一人で歩いている時、「あ、今ここで事故にあったら誰も探してくれないだろうな」と思うことが時々あるけど。実際はこんなに探してくれている。
関係のない人、関係のある人、会ったこともない人、すれ違ったかもしれない人。
探すことまでしなくても、私みたいにしばらくどっかでひっかかったままの人。
忘れていても「あの人どうなったかな」とひょっとしたはずみで思い出すことになるものなんだな…。
忘れてたかさぶたをはがすみたいだ。
しばらくそんなことをうろうろと考えながら歩いた。
大弛小屋くらいまでずっとそんな感じ。
金峰山小屋に入る前に、金峰の山頂から、下りる予定にしている八幡尾根のピークまで偵察に行ってみた。
金峰の南面は思っているよりずーっと先まで、ふかふかした木で覆われていた。おっきい森だなあ。
緑色のふかふかの中にちょこんちょこんと黄色やオレンジ色の紅葉がぽわぽわしているのがきれいだった。
明日、大丈夫かなあ?
なんとなく、そこまで考えながら歩いてきた遭難者のこととかもひっかかっていたり、今日の行程でもう満足しちゃったのもあり、ここを歩くかどうか、もうすでに「半々」の気持ちになっていた。
でも案の定、小屋に着いてのんびりしていたら、もうすっかり予定はなし崩しになってしまった…。
あ〜あ…。
金峰の小屋は危険だ。
山小屋って不思議に落ち着くところだ。
誰もいない静かな食堂で地図や本を見るのもいいし、他のお客さんとくだらないおしゃべりするのもいいし。
ぼけーっとしたり、気が向いたら、ちょろっと厨房を手伝ったり。
友達の家でもないし、実家でもないけど、なんだかいい。特に知ってる小屋だと、小屋のどこに居ても「ここにいてもいい」感じがして居心地がいいもんなんだなあ。
小屋に入った当初は、「常連さん」がよく理解できなかった。「山に来る」っていうより「小屋に来る」のが目的って?何しに来てるんだろうなあ?と思ってたけど、ようやっと分かるようになっていた。
あーそっか。こういう感じかあ。
愛想よくされたいんでも、もてなされたいわけでもない。
放っておかれるのが良かったり、手伝わされるのが良かったり。
なんだか、不思議な場所だ。
奄美大島、ゴールデン街、ヨセミテ、木版画、クライミング、絵を描く。
↑ たまたま一緒になったお客さんや、吉木さんと話している時に「あ!」と思ったキーワード(みたいなもの)。
たまたま出会った人や、その人の言葉で、ピンと来るものに、ふらっと寄って行くのはワクワクすることかも。
そんなもんだよ、と言われて、「うん、そうそう」と太鼓判を押されたような気になった。
素直に本当だなあと思えるようになったのはここ最近のことで、自分でもなんだかそれが「いいこと」に思い始めている。
あー、あのお姉さんと、ふらりと都心で会って呑んだら(呑めないけど!)面白かったかも。
この間のカナさんもそうだけど、そういう肝心なところでガードの固いところは、自分のつまんないろところだな。
(五丈岩。岩の形よりも、岩と岩の隙間を見てた…。なんだか新鮮だった。絵にしたら面白いと。)
翌朝はのんびり出発。
八幡尾根はまた今度。
その時は金峰の小屋に寄っちゃあだめだ。ここに泊まったら最後、のんびりしてしまう…。
大日岩をよっこらよっこら登って、八丁平から富士見平小屋(みずがきは端折った)。
初めて通ったいい道。
今度来る時はテント持ってこよう。
今回は行く先行く先で、小屋に立ち寄った。
「おつかれさん」「行ってらっしゃい」
と声かけてもらえるのが、やっぱり嬉しかったなあ…。
小屋って、人が居なくちゃ小屋じゃないのかもしれない。
そこに居る人は別に愛想がよくなくてもいいし、話をしなくてもいい。
(できれば機嫌よく話しかけてもらえたら嬉しいけれども)
でもそこに人が居なかったら、ただの建物だ。
「小屋番は小屋にいるのが仕事」
って本当だ。
だから、ずっとそこにいる小屋番さんの代わりに、小屋と小屋をつなぐ人がいるといい、とも思った。
例えばイオリさんみたいに奥秩父に関わるひとたちと親しくなってる(なろうとしてなってる、と言うより、やりたいことをやっていたら自然となっていた…みたいに)人とか。
雁坂小屋のヨコタさんみたいに、隣の小屋のよしみで時々顔出してくれる人とか。
小屋をつないでる訳じゃないけど、奥秩父に通ってる間に、いつの間にかあちこちの小屋に顔なじみになって行く人とか。
ぽちん、ぽちんと山の中に建ってる小屋は、渡り鳥が休憩できる場所みたいだ。
自分も時々そうやって渡り鳥みたいに渡って行けたらいい。いつの間にか「こんちは」って隣や、またその隣の小屋に顔を出せるようになれたらいいなと思う。
東沢釜の沢
研修旅行、と称して釜の沢へ行かせてもらった。
一枚岩のゆるい傾斜のトラバースのところ。
「あー、すべって落ちそう…」
と思った途端に、ずるっ、ぼちゃん、どぼん。
とりあえず身体は浮いてるのに、ザックを背負ってるから顔が上がらない。
とっさに泳いだけど、どっちに向かってるのか全然分からない。
必死で手を伸ばしたら、対岸だった…。
「死ぬかと思った!」
顔上げて振り返ったら、向こう岸で二人が笑っていて、ほんとは怖かったけどそれを見たら思わずこっちも笑ってしまった。
あ〜びっくりした。
人ってほんとにびっくりすると笑っちゃうんだなあ。
(後で聞いたら、そういう時は抵抗しないで流された方がいいみたいだ)
前をルンさん、後ろをホサピさんに挟んでもらって、私は真ん中を歩いた。
一緒に歩いていてるけど、次の一歩を失敗したら、滑って転んで落っこちるのは自分。そう思ったら必死。
徒渉のところも必死。
高巻きのところも必死。
一歩一歩が、結構必死。
これって、なんだか動物みたいだ。
頭の中は「死なない」ことでいっぱいいっぱいだ。
全部の動きに緊張感がある。
野生の動物みたい…。
「生きてるなあ」って思った。(大げさだけど)
魚止めの滝の下でテントを張って、夕方前に、千畳のナメまで上がってみる。
きれい。
でもやっぱり、内心ヒヤヒヤ。
夜寝る時、今日一日の長さと、明日一日の長さが途方もないように思えた。
例えば、何かのアクシデントがあって、二人が歩けなくなったら、一人で小屋まで帰れるだろうか?とか。
考えると怖くなるから、考えないように考えないように。
心配だったけれど、歩き出してしまったらやっぱりそれどころではなくなった。
広河原のところ、ちょっとだけ沢から離れて森の中を歩いた時の、なんとホッとしたことか…。
ようやく楽しくなってきたのが、最後の方。木賊沢を分けたあたり。
急に日が当たるようになった(その代わりにコケがぬるぬるしてくるんだけど)。
勾配は急になったけど、もうあとは迷うところがない。一直線に登っていける。
「好きなとこ登っていいよ」
と言われて、自分で歩きやすそうなところを選んで歩く。
もうちょっとで小屋のポンプ小屋のところ。
「ダダダダダダ…」
ポンプが回ってる音が聞こえてきた。あー午前中、北爪さんが水揚げに来たんだ。
と思ったら、ようやく「帰ってこれた!」って実感が湧いてきて、嬉しかった。
小屋まで行けば、風呂に入れるけど…洗髪〜。
(下流の皆さん、ごめんなさい)
二回目の沢登り。
初めて歩いた真の沢は、うっそうとした中に光が射すような沢だった。
逆に釜の沢は広々として、水の量も多くて、「海水浴」みたいだ。
同じ沢登りでも、全然違うのは、発見だったな。
「服着たまま、靴履いたまま、水の中に入っていいのかな」
川の中に最初の一歩を入れる時の、ソワソワした気持ち。
最初は躊躇するのに、思い切ってザブザブ水の中に入る時の「えい!」って感じ。
一回入っちゃったら、後はもうやけくそみたいにげらげら笑っちゃう感じ。
どれもやっぱり面白くて、またその感じを味わってみたいなあと思う。
2015/7/10〜7/11 三人で。
松本とカナさんのこと
八月の休暇中、松本市内をぶらぶら。
「あがたの森」で蝉の鳴き声がわんわんしていた。
あんまりすごいから、携帯のボイスレコーダーで録音した。
(聞き返してみたら全然違って聞こえたけど)
ひたすら街の中を歩く。
それも観光とかじゃなく、ただ街の路地をうろうろ。
美味しそうなパン屋さんがあったらパンを買って公園でぼんやりしたり。
眠たくなったら温泉に行ってお風呂に入ってごろごろしたり。
暑くなったら町の大きな図書館へ行って本を読んだり。
「ここにすんでる人」になったみたいだ。
大人になってひとり旅をし始めた時もそうだったけど、知らない町に行くと、ひたすらうろうろ歩く。
今思い出してもうろ覚えだけど、あちこちの町で覚えているのは、観光名所じゃなくて普通の町の風景(橋とか、畑とか、商店とか)。だから、たぶんもう二度と同じ場所には行けないんじゃないかと思う…。
でもそうやって町の全部の雰囲気を見たいのかも。
それって人によっちゃあ、せっかく来たのにもったいない(その土地の美味しいものを食べるわけでもなし、名所を見るわけでもなし)し、地味!と思われるかもしれない。一緒に歩く人もつまんないだろう、それじゃあ。
でも、私はこのやり方でその町を知りたいんだなあ、きっと。
松本を歩きまわっている間、なぜかそんなことを考えながら歩いていた。
なんだかそれが大発見みたいに思えた、いい時間だった。
市内にはわき水があちこちにあって、路地沿いには水路がある。
バス通りの割には狭い道のぎりぎりに寂れた商店がある。
遠くに衝立てみたいにおおきな山並みがそびえている。
あーここ住んでみたいなあ、と思う町って、なんだか子供の頃に住んでた場所に似てることが多いなあ。
二泊目に泊まったゲストハウスで出会ったのがカナさん。
「これから近くで親指ピアノのひとのライブがあるんだけど、行く?」
しゃべり方もなんだか不思議なひとで、例えば普通の人が初対面の人と話すとしたら、相手の出方を伺うとか、ちょっと反応を見るような話し方になると思うんだけど。カナさんはもう始めっから「知ってる人」と話してるみたいだ。
なんだか少し浮き世離れしてるみたいなカナさんにくっついて、会場の小さい本屋さんまで車に乗っけてもらった。
本屋さんに着くなり
「私はいいや。お金もってないし。」
とどっかへ行っちゃった…。あれー?
親指ピアノの演奏は結構面白くて、でも聞きながら、カナさんにくっついてどっかに行くのもよかったのになあ…。とも思った。
ライブが終わったらまた顔を出しにきて、一緒にゲストハウスまで今度は歩いて帰った。
歩いてても、飲み屋の扉から出てきたおじさんに「飲みすぎちゃだめだよ〜」なんて声かけたりしている。知ってる人かと思ったら、やっぱり知らない人に話しかけてた。
なんだか、つかみ所がない人だなあ。
普段してるお仕事も生活も、まったく想像できない。自分の感覚だけで生きてるみたい。
…いいな。
私は「人に興味を持つ」ことがあまりないけど、カナさんにはちょっとくっついて行ってみたいなあと思った。
「明日はどこ行くの?」って聞いたら「うーん、どうしよっかな。」とニコニコ。
どこに行くのか知らないけど、一緒に無計画にふらふらしてみたら面白そう、と思っていたら、翌日の朝にはもういなくなっていた。
昨日の晩にあったことってほんとうにあったことなのかな?と思う反面、この辺をうろうろしていたら、またカナさんにバッタリ会えそうな気もしながら、またうろうろほっつき歩いていた。
船窪小屋
8月の休暇は、久しぶりに北アルプスへ。
松本でぶらぶらした後に一旦帰宅。ほんとうはもう松本でいっぱい遊んだからもういいか…と思っていたけど、帰ってからやっぱり行く気になった。翌日の朝から切符の手配、小屋の予約、タクシーの予約…、自分でもびっくりするくらいに動いて、どれもスムーズに進んだから、これはきっと「行け」ってことだ!と解釈した。
その日の夜行でまた信州へ。
信濃大町の駅の改札で、登山者を片っ端から捕まえてタクシーの相乗りを募る。タクシー会社のおじさんも手伝ってくれた。
なんだか私もずいぶん図々しくなってきたなあ…と思いながら。
七倉から登り始める。
「急登」と書いてある胸突八丁もあまりきつく感じなかった。これだったら徳ちゃん新道の方が何倍も大変だ。
2300mあたりで、もう樹林帯が途切れる。
ちょうど甲武信小屋と同じくらいの標高で、もう森林限界だった。
こんなところまで来て、で自分の小屋のこととか考えちゃうのは…我ながらおかしかった。
あんまり早く小屋に着いても申し訳ないので、ゆっくりゆっくりと。途中で昼寝も挟んだけど、お昼くらいにはもう船窪小屋に着いていた。ちょうど小屋番さんたちの休憩時間みたいだったのに、受付してもらえた。入り口の扉をあけたらもうお茶の間みたいになっていて、「ひとんち」みたいな小さい小屋。
時間もいっぱいあるので、水場まで水汲みに。
ずいぶん下がってもまだたどり着かない。ようやくテント場まで下りてきて、テン泊のお姉さんや、縦走してきたご夫婦も一緒になって水場を探す。
あった、あった。
…そこから更にザレザレの崩壊したような斜面を下がったところに水場があった。
テン泊のお姉さんは、サンダルで来てしまって、見ている方が危なっかしい。
水の汲める位置は、3人も立ったらいっぱいになるようなところで、交代で水を汲んだ。急斜面はそのまま谷になっていて、水筒を落としたらもう拾いに行けないだろうな…。
この日一番緊張したところ。
小屋のお姉さんも水汲みと洗濯しにここまで来ていた。
それを見てたら、なんだか「うわあ…」と思えた。自分から見たら、ものすごく不便!と思えるのに、このひとたちは「普通」の生活で、普通にしてること。
その光景が、ちょっと前に見た映画「世界の果ての通学路」の景色とだぶって見えた。
夕食後は、みんなでお茶会。
お酒じゃないんだー。
テント場の山岳部の学生さんも飛び入りで参加。
テン場の人もオッケーなんだー。
うちの小屋だったらゼッタイここはお酒になるだろうなーと思ったし、テン場の子はそういう場には入れないだろうなーと思った。
でもここの小屋はそういう雰囲気。
お父さんお母さんは、来る人みんなに優しい。小屋番のお姉さんも「ここにいると穏やかになれる」と言うのも、そうだろうなあと思った。きっと小屋の人がそうだから、お客さんもみんな穏やかになれるし、学生さんたちもうちの小屋に来る子たちみたいに軽薄な感じにはならないのかもな。
あー、また自分のとこの小屋と比較している…。
でも不思議と「いいなあ」とうらやましい気持ちにも「うちもこんなふうだったらな」という気持ちにはならなかった。
うちの小屋には、もっとガチャガチャした雰囲気が合ってるし、こんな風に穏やかだったら物足りないだろうなあとも思った。
夕方や明け方の空をみんなで眺めて、「きょうの夕焼け(朝焼け)はいいねー」って感動したり、毎日ずいぶん下まで水を汲みに下りたり。
空だって毎日見ているだろうに。水だってもっと便利にしようと思えばできるかもしれないのに。
でも毎日こんなふうに空に感動しながら、たんたんとここで生活している人たちがいる、ということに、一番ぐっときた。
北アルプスの雄大な景色や、手作りの美味しい食事よりも、それが一番感動したこと。
こんなすごい景色の中にいるのに、奥秩父のことや自分の小屋のことを考えながら歩いたのも、ちっともつまらないことじゃなく、むしろ充実した気分になったのも不思議なことだった。
2015/8/6〜8/7
[一日目] 七倉ダム=(船窪新道)=船窪小屋(泊)
[二日目] 船窪小屋=北葛岳=蓮華岳=針ノ木峠=扇沢
雁坂峠、雁峠
7月の休暇は、雁坂峠雁峠に寄り道して下山した。
雁坂峠は、白い霧の中。
むこうに見える樹のかたちが、うっすら。
濃くなったり薄くなったりする。
はっきり「見えない」が、いいんだなあ。
古礼山の山頂も。
晴れてたら何が見えるんだろうって思うけど、見えないこの景色がよかった。
雁峠のちょっと下でテントの準備をしていたら、
ひゅん、ひゅんと5〜6匹の鹿が斜面駆けていった。
こっち気がついて、みんな静止。
「ナニアレ、ナニアレ?」
片耳をピクピクさせてこっちを見ていた。
こっちは一人、むこうには5頭。
どうしよう、こっちに向かってきたら…。「おじゃましまーす!」と一応挨拶?してみたけど、その後何度もなんども偵察にやってきた。
やだなあ、怖いなあ…。
でも、もしかしてあっちも怖いと思っているのかも?
そうだとしたら、鹿も私も今は「対等」だな。
そう思ったら、あんまり怖くはなくなった。
山の中に一人でいるのは怖い。
でも自分も動物のうちの一頭で、鹿も熊も色んな生き物もみんな対等って思えるのは、山にいる時しか思わないことだ。
例えば、動物に襲われて?怪我したとしても、しょうがないことだなあと心のどっかで諦める…というか、「そういうもんだ」ちゃんと思えるのはお山ならではだと思う。
多分、小屋や、管理されてるテント場だったら、そこまでは思わないかな。
山の中だったとしても、ー人がたくさん歩いている道だったり、慣れた道だったら、そういうことも忘れてる時が多い。
星野道夫さんの文章に
「あたりをゆっくりと見わたし、小さな音にも耳をそばだてて歩いていると、だんだんふしぎな気持ちになってきました。いつにまにか、まるで自分がクマの目になって、この森をながめているみたいなのです。心が静まるにつれ、森はすこしずつぼくにやさしくなってくるようでした。
“もしクマが反対からやって来たら、そっと道をゆずってやればいいのだ”
そんなことも考え始めていました」「森へ」より
を思い出した。
こんな風に思えるのにはまだほど遠いけども。
「私も動物の中の一人」
なんて、なかなか実感する場所ってないように思う…。
ひとりで山に来る理由のひとつかも。と最近思う。
下山は沢沿いを新地平へ。
いっぱいなってたイチゴ。
酸っぱいけど、ちゃんとイチゴの味がした。
他の動物も誰か食べてるのかな?
夕方の空
夕方、厨房で自分たちの夕飯を食べてる時間帯、おもてがすごい色になることがある。
小屋の中までその色に染まる。
なんでこんな色になるんだろう、って不思議な色になることもある。
ひとりで見にいくこともあれば、お客さんと一緒に見にいくこともある。
小屋は東向きだから、東向きの空まで赤くなっていると、夕焼けてる証拠。
「あ〜、待って待って!」
あわててサンダル履いて尾根まで行くこともある。
でも、夕焼けてる時の東の空の、微妙な色の変化もいい、と思う。
なんとも言えない透明な感じ。
日の入りの、暮れていくこの時間ってすごく好きな時間だ。
派手な日の出もいいけど、ゆっくり色が変わっていく、こっちの方がいいな。
ほんと、ここにいるご褒美みたいだな。
股の沢林道、真の沢林道
十文字峠から股の沢林道。
やっぱりいい道。小さな沢を何度も横切る。
針葉樹、シャクナゲ、コケ、いろんな種類の緑が迫ってくるような道。
じゅわーっと水が染み出しそうな色。
途中の大きなカツラの木、去年と同じ。覚えてた。
見上げると首が痛くなるくらい大きい。
ずっと左がわに沢を見ながらの斜面を歩いているので、片足ばっかり踏ん張っているのに疲れてくる。地下足袋で来てまだよかったなあ。
吊り橋を渡ったら、真の沢林道で登る。
道がだんだん細くなる。
シャクナゲのトンネルも背が低くて、向こうの方をよく見てやっとテープを見つける。
思っていたより印が少ない。
そのことに、ちょっとホッとした。
印がいっぱいありすぎるとやっぱりがっかりする…。
土が柔らかい。腐葉土みたい。
浮き石がその上に乗ってるので、斜面を滑り落ちそうになりながら歩いた。
千丈の滝の落ち口の上で徒渉。
さっき木立の隙間からみえた滝は、自分が思ったよりずいぶん高くて長かった。
あそこを落ちたらどうなっちゃうんだろう…想像するとおっかない。
水の量も沢の幅もたいしたことないのに、勢いよく流れている水の上を渡るのはやっぱり緊張する。
地下足袋脱いで入った水は、ヒヤッこくて気持ちよかった!
今日はどこでテント張ろうかな…。
途中に見え隠れする河原も良さげだったけど、やっぱりあそこにしよう。
急斜面を下りて、沢の出合へ。
陽が暮れてくると、だんだん周りの緑と自分の境目が分からなくなるような感じになる。
シダの葉っぱの緑色、倒木や岩についたコケの緑色、樹の葉の緑色、全部違う色だけど、
その全部が湿気で溶けて混じりそうな色。
写真に撮ってみたけど全然違う。
絵に描いてみたけど手がまるで追いつかない。
なんだか、ここにただ居て、じっとしながら、自分が景色に溶けそうになっているのが気持ちよかったな。
水を汲みに沢まで。
去年はここから入渓したっけ。
黒い樹の隙間から、小川が光るのが見えるその光景もすごく良かった。
水汲みにきたのに、しばしぼんやり。
夜、沢の音がうるさいかな、とも思ったけれどそうでもない。
持ってきていた本は「ムーミン谷の十一月」。
本の中で、ずっとじめじめ雨が降っている感じや、薄暗いムーミン屋敷に灯りがともってる感じ、ちょっと面倒くさい人たちが集まってきて、思い思いにその中で籠っている感じ…。
うちの小屋みたいだ!
森の湿気のある感じや、暗ーい雰囲気や、色や、匂いも奥秩父みたいだ…。
寝袋にもぐりこんで、ヘッドランプで本読みながら、本の中にももぐりこんでいくような気分になった。
なんだかワクワクする夜だったな。
翌日の登り。
道を間違えて、思ったよりも時間がかかった。
去年3人で歩いた時はそうでもなかったけど、やっぱり一人だとおっかないところがいっぱいある。
掴んだらちぎれそうなロープ、足を乗せたら折れそうな渡し板…。
「ここ、直した方が良いんじゃないかな…」
てとこがいっぱいあった。
歩きながら、また登山道(整備)のこととか思ってしまう。
小屋に入るまでは考えたことのなかった「登山道」のこと。最近時々考える。
「整備」って言うと、一見すごく「いいこと」してるように聞こえるけど、それって誰のためなんだろう、と思う。
誰でも歩けるようにすることがいいことなのかな…。
中途半端にやるのは、ただの自己満足のように思える。
自己満足じゃない「登山道整備」ってあるのかな?
いつか誰かがつけてくれた赤テープ。
ポツリポツリと思い出したようについているのが目に飛び込んできた。
深い緑の中で、ひときわきれいな色に見えた。
好きな場所、いっぱい見つけられたな。
大事すぎて、みんなに内緒にしておきたいような景色をたくさん持って帰った。
ひとりで山に入って、ひとりで山に泊まるって、しみじみいいなあ、ーと思えた二日間。
山を「登る」というよりも「うろうろ歩く」のがやっぱり好きなんだなと思えた二日間だった。
貴重な時間をもらえて、感謝。
あの緑の色、忘れないようにしよう。
2015/7/7〜7/8
甲武信小屋=十文字峠=(股の沢林道)=(真の沢林道)=甲武信小屋